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立命館の歴史

立命館の歴史

明治期の政府重鎮が学園創設の始祖

ではここから立命館大学の歴史、主に大学が創設されてからの歴史を簡単に紹介していこうと思う。まず最初に話しておかなければならないのは、立命館大学と呼ばれる学校が誰によって現代まで続く学校として、存在し続けたのかについて話していこう。その歴史を紐解いていくと、立命館大学とは最初からこの学校名として日本に存在していたわけではなく、初期には『京都法政学校』と呼ばれていたが、ここからどうして立命館という名前を採用したのかについて疑問が残る。それを語るにはまず大学としてその歴史を一歩先に踏み出す前に話しておかなければならない前史がある、それはかつて明治期において内閣総理大臣を務め、その後の日本における政財界の重鎮として君臨していた『西園寺公望』という人物について話をしなければならない。

どうしてこの人物について詳しく話をしていかなければならないのかだが、それは彼がかつて私塾である『立命館』を創設したことで、立命館の歴史が始まる。西園寺公望は現在の立命館大学創設に直接的に関わっているわけではないが、彼の弟子でもあった中川小十郎によって意志を後の世にも広めていくためにと作ったのが、立命館大学という大学の歴史が始まりを告げる1900年に創立された京都法政大学へと繋がっていくのだ。

厳密に言えば西園寺公望そのものが立命館と関係あるわけではなく、ただ彼が作り出した私塾における理念を良い意味で継承している教育期間を作ろうとした結果、それを弟子の中川氏によってその意志を歴史に刻もうとした結果、現在の立命館まで語られることとなる。またこうした繋がりから現在まで西園寺家と立命館大学との関係はいまだに継続しており、大学のイベントなどではいまだに西園寺家が出席しているほどだという。

歴史的な人物との関係もそうだが、立命館という大学が歴史と言う時間の中でどれほど積み重ねているのかについても注目してみたい、前史については連続性がないため除外するとしても、立命館大学の基礎となった教育機関である京都法政学校からと考えれば、来年で115年という時間を過ごしていることが分かる。そんな時間を紐解きながら、立命館について分かりやすく話をしていこう。

じぶんにあった大学を探す

立命館大学になるまで

京都法政学校として京都の教育機関として設立していた頃、当時は日本としても教育というものに対して積極的に取り組んでいく姿勢が見られていた時代でもあった。数字を見れば分かると思うので、試しに1890年から1902年までの教育に対する熱心度が伝わってくる。

  1890年の初等教育就学率 1900年の初等教育就学率 1902年の初等教育就学率
全国 50% 80% 90%
京都 50% 90% 100%

この10年で何が起きたのだろうかと思うが、丁度大政奉還だったりなど日本の内情そのものが改革されている時期だったこと、それまでの閉鎖的な体制から誰もが平等に教育を受けることが出来る環境が形成されていったのかもしれない。特に京都に関しては初等教育をほぼすべての子供たちが受けている状況だったという。京都法政学校もそうした時代の流れも相まって、西園寺公望の意志を受け継いだ中川小十郎の判断は誤ってはいなかったということだ。

こうした世間の流れ、教育に関して国民が熱心に考えるようになると、初等教育だけでは足りないため中等教育にも力を入れていくべきだとする意見が相次ぐようになる。京都法政大学はそんな中等教育の1つとして成長して行くことになる。時代はそれまで閉鎖的な日本には無かった世界で発展しつつあった産業による新しい形が次々と日本に参入して行く中で、これからの時代に必要な高騰今日初区を行っていける教育機関の設立は、京都にもなくてならないと考えられるようになったことも1つの後押しだったが、そうした中でとある問題が浮上するようになる。

それは政府が高等教育機関全体における再編を行うといったことで、それまで当然のように『大学』という名称を名乗る事は比較的自由に申請することが出来た。ただこの再編によってある一定の条件を満たしていない教育機関に関しては『大学』という名称を利用することを禁止するという『大学令』が施行される。公に大学として機能するのも一重に限られたところだけになってしまうため、立命館としてもその条件を何とか乗り越えて大学という名前を使用することを認めてもらうため、教育機関としての意地を見せなくてはならなくなった。ただ大学を名乗るのは簡単なことではなく、当時の京都法政学校としての特徴からでは、法令による条件をクリアするのは困難を極めたという。

一時期は創設者自らがこのまま専門学校という名称を使用してもいいかもしれないと考えていた時期もあったらしいが、学校の卒業生が中川氏を後押しする形で条件をクリアするための妙案を出すことによって、見事に1922年には現代までに続く『立命館大学』と名乗ることが正式に認められるようになった。大学として成立するまで、中々苦しかったようだが、当時の人も教育機関に対する愛着心を強く持っていた人がいたというわけだ。

立命館民主主義とは

立命館に対して良い印象を持っていないという人がいるとしよう、おそらくその人達は立命館の歴史でかつて『国家主義思想』とした考え方があったからというのも影響していると考えられる。当時は日本としてもだが、世界的に軍事バランスで誰が覇権を握るかで争いが行われていた時期でもある。日本も今では鳴りを潜めているが、当時はありえないほど過激な思想を持っていた人々が沢山いた中で、立命館大学もまたその煽りを発揮していた時期があった。特に創設者である中川氏が先導していたこともあって、一時期は大学の生徒によって構成された『禁衛隊』と呼ばれる、立命館大学が保有する独自の防衛組織が結成されていた時もあったという。

やがて世界が戦争という荒波に飲み込まれていくことになると、立命館としてもお国の為ならば死ぬのも厭わないとする、積極的に戦争に介入しようとする動きが強くなっていった。ただそれが学生達すべてに浸透していたわけではなかった、中には戦争をすることに抵抗感を持っていた人もいたかもしれないが、逆らうことは許されなかっただろう。そして来る1943年には大学に在籍していた3,000人近い学生達が戦地へと送り込まれ、1/3が死亡するという事態を招いてしまう。この姿が教育機関としてあるまじきものなのは言うまでもなく、あまつさえ学生達を死に追い込み、国策だったからと積極的に戦争へと参加するような雰囲気を作り出していた事は疑いようのない真実だ。こうした体制は敗戦後のGHQからしても教育機関として相応しくないとして解体の危機に曝されたという。

何とかして大学を存続させるためにも当時学長を勤めていた『石原廣一郎』氏によって民主主義体制へと巧みに移行させたことで最悪の事態から回避することには成功する。国家主義を持った人々は軒並み大学から排除していき、学園そのものを新時代に向けた相応しい教育機関として新生しようとして、そうした過程で生まれたのが『立命館民主主義』と呼ばれるものだ。

時代が時代だったとはいえ、戦争に加担していたことを考えるととんでもない事をしていたもんだと思ってしまうが、それも当時だからこその機運なのかもしれない。

塾えらびなら
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